◆夢は望めば叶うのか。

 私の中学校時代の座右の銘は「夢は望めば叶う」だった。当時、コバルト文庫に傾倒していた私にとって、バイブルだった「ばら物語」(藤本ひとみ先生)の一節に書いてあった言葉だ。漠然とものを書く仕事に就きたいと望んでいた私だったが、才能があるのかないのか自分にはわからず、というか、才能のなんたるかさえもわかってはいなかったので、とにかくこの言葉にすがりついて、夢を消さないようにしていたのだった。
 それから時が過ぎ、大学生になった私の夢は、すでに揺らいでいた。ものを書きたいと思う気持ちがなくなったわけではなかったが、それで生活していくということがどんなことなのか、現実を知ったからだった。自分の才能だけで道を切り開くというのは、並大抵ではない。学校の中で国語ができるというレベルではなく、全国でそれも年代を越えて飛びぬけていなければ、お金は稼げない。そのときの私の座右の銘は「夢は望めば叶う。でも、夢を持ち続けることは難しい」に変わっていた。
 社会人になった今、夢に対する見方はもっと変わってしまった。才能もあってデビューしたけれど継続できない人をたくさん見た。才能というのは本当に砂の中に埋もれたダイヤモンドを探すようなもので、そんなに頻繁には起こらない稀有なことなのだ。だから、自分はそれから外れていても当たり前なのだと。だから、今は「夢は望めば叶う」とは思わなくなった。夢を持つのはいいことだが、あまりに多く努力と運とすべてをかけなければ、そのチャンスさえ巡ってはこないだろう。そして、チャンスに巡り合えたとしても、掴めるかどうかは別問題だ。夢というのは、宝くじよりも少ない確率で叶うものなのかもしれないと思っている。
 身の丈にあった夢をみることだって、悪くないんじゃないか。背伸びしなくたっていいんじゃないか。才能があって、特別だったいいと望んでいたけれど、才能がない普通の自分にだって価値はある。ものを書くというのは、小説家になるだけじゃなくて、仕事上の企画を作るときにだって必要だし、冊子を作ったり、キャッチコピーを考えたりすることは仕事の中だってたくさんある。
 中学生のときに「文才があれば、他には何もいらないから、文才をください」と本気で神様に願っていた、幼すぎる自分に恥ずかしさは感じるものの、今もやっぱり言葉を紡ぐことの才能が本当にほしいと思っている。今の方が自分の文章を磨いている気さえする。企画の趣旨をもっと伝えるために、企画をよく見せるために、今はビジネス用の「ものを書く」という夢を追いかけている最中なのかもしれない。