ゲド戦記。

 公開初日に行ってきました。初日に見るのはクセになりそう。ジブリ作品らしく『ハウル』のときと同じように子供連れの方が多かったのですが、やっぱり落ち着いてみれないかも。上映に滑り込みで入ったので、突然本編が始まり心の準備もなしでした。感想の続きは下へどうぞ。
 原作を読んでいる私から見ると「ゲド戦記」の世界にあるまったく別のストーリーでした。ゲド(ハイタカ)とテナーテハヌー(テルー)はバックグラウンドは原作に近かったけど、レバンネン(アレン)に至っては別人でした。『影との戦い』のゲドとレバンネンが被ってみえるような設定だったかなと思います。なので、原作を読んでなくてもまったくオッケーだと思います。多少、言葉の端々に『ローク』だとか『墓所』だとかが出てきますが、それ以外は原作が見える部分はありません。
 ストーリー全体としてみて、ハイライトが見えない作品だった気がします。掴みの部分の持って行き方が弱かったので、そのまま、だらだらと続いていくストーリーに飽きてしまいます。ラストも盛り上がりにはかけました。ストーリーの流れとして、ひとつひとつのエピソードが短く切れているような印象を受けました。その場その場の感情がとぎれとぎれになってしまい、全体としての強弱が感じられません。個性的なキャラクターがいれば、それだけで話を持って行くこともできたのでしょうが、そこはそれで人物をシンプルに描き出していたためにそのような楽しみもありませんでした。ぱっとした見所がないために淡々とシンプルな印象だけでした。そこに静かな感情を見いだせばよかったのか、ジブリ作品としては大人しい作品です。途中のテルーの歌が長い。そして、その歌のシーンに大きな意味があるのかといえばあるわけでもなかったので、そこで映画として中だるみした気がします。映画を見て残るものが、かすれてしまい残念でした。
 映画が伝えたいコトははっきり見えていたように思います。生きることと死ぬこと。光と影。それが同じものであり、終わりがあるからこそ大切なのだと。それはゲド戦記の原作でもはっきりと見えていたテーマであったし、私がゲド戦記を好きな理由はそれを気づかせてくれたことにありました。自分との戦い。それは敵との戦いよりも激しく、そして勝ち負けなどないのだと。アレンが背負っていたのは『影』という名の『光』。逃げて逃げて逃げても、おいかけてくる自分に向き合うことができなかったアレン。そんな彼が生きるという意味を知り、自分の影の部分と向き合ってほしかった。凶暴性を持つアレンが追いかけてきていたのではなく、光のアレンが自分を追いかけていた。切り離された精神を一つに結びつけたものがなんだったのか、それがテハヌーとゲド、テルーとの生活の中にあったことはわかりますが、アレンがもっと自分と向き合う瞬間を描いてほしかったなと思います。
 クモというわかりやすい敵を作り出したことで、結局、クモが悪の元凶だったかのようなラストになっていますが、本当はそうではない。少しづつ狂い始めた世界の根源はクモというたった一人にあったわけではなく、それぞれの人の心を蝕んだ欲望という名の自分にあったのだと思うのです。自然から切り離され、自分から切り離され、もはや何も見えなく聞こえなくなってしまい、自分の中に閉じこもってしまった人間。生きているということが、奇蹟に近いほどの危うさの中にあることも知らずに、より多くを食い尽くそうとした。そのために崩れてしまった。それを世界が見せているだけなのでしょう。均衡という微妙なバランスを崩すことなく、生きていくことはとても難しい。だから、自分の心という一番身近なものの均衡だけは失いたくないと思うのです。誰かを愛し、誰かを守り、誰かと伴に生きる。それがこの世界を支えている最初の絆なんだろうと。
 原作と同じで悲しかったのは『ゲド戦記』とタイトルに「ゲド」の名が出ているにも関わらず、大賢人ゲド様の活躍が少なかったこと。一番いてほしいときにどこかに行っていたり、窮地に陥っているのに隣の塔だったりと、本当に活躍の場がありません。ゲドが活躍してしまうとレバンネンの出番がなくなるんですが、やっぱり大賢人さまらしく見せ場がほしかったかも。結局、おじさま好みなだけなんですけど(笑)